PADDLER’S EYE 湘南の今を独自取材した特集と連載

SPORTS&OUTDOOR トレイルランニング –前編– 石川 弘樹さん 「走ることだけが楽しみじゃない」

山に足を運べば、軽快な服装と足取りで駆けるランナーの姿を目にすることも珍しくなくない。
この20年ほどで、トレイルランニングをここまで日本に根付かせたキーパーソン、
プロトレイルランナーの石川弘樹さんが考える山を走る魅力とは。

#004 トレイルランニング -後編-はこちらから

Photos : Yasuma Miura  Text : Kei Ikeda

レゲエが繋いだ縁

「トレイルランニング」。略して「トレラン」。
今やすっかり耳慣れた響きだが、わずか20年ほど前は、山好きの間ですらほとんど通じなかった言葉である。

元々、山を走る競技が日本になかったわけではない。1948年から開催されている「富士登山競走」をはじめ、日本には古くから山を走る競技が存在していた。しかし、それらは「山岳耐久レース」や「登山競争」と呼ばれ、その名の通り、いかに山で耐え忍べるかを競うようなレースばかりだった。

そんな山男たちが泥と汗にまみれて忍耐力を競い合っていたシーンに、1人の若者が颯爽と現れる。ジャージにTシャツをインする参加者たちに混じって、1人スタイリッシュなランニングウエアに身を包み、ドレッドヘアを振り乱して楽しげに走る姿は否応なく注目を集めた。そして、その活躍と共に、彼が欧米から持ち帰ってきた「トレイルランニング」という言葉と山を楽しみながら走るという概念は、日本でも急速に認知度を広げていく。

前置きが少々長くなってしまったが、その若者こそ日本で初めてのプロトレイルランナー・石川弘樹さんだ。

「学生時代はプロを目指してサッカー漬けの毎日を送っていました。しかし、怪我をきっかけに聴き始めたレゲエにすっかりハマってしまいまして…」

子供の頃からサッカー以外の楽しみを知らずに育った大学生にとって、音楽と夜の世界は刺激的だった。レコード店に通い詰め、DJを嗜み、クラブでアルバイトを始めるようになるまでに、それほど時間はかからなかった。

そのクラブのお客さんのサッカーチームに助っ人として参加したことがきっかけで知ったのが、アドベンチャーレースの世界だ。
「アドベンチャーレースとは、地図を見ながら道なき山を走り回り、マウンテンバイクを駆り、カヤックで海を渡ってゴールを目指すレースです。その世界大会にぜひ出てみたいと思ったのですが、そのためには日本一のチームに入れてもらう必要がある。目に見える実績がなきゃ認めてもらえないということで、山岳耐久レースに出始めたんです」

それまで取り組んできたチームスポーツでは、いくら自分の調子が良くても、チームがうまく機能しなければ負けてしまうことも多々あった。しかし、ランニングは自分がトレーニングをした分だけ、わかりやすく記録が伸び、順位もみるみる上がっていく。楽しくて仕方なかった。気づけば、レゲエに次いで、走ることにもすっかりハマっていったのだ。↙︎
実は鎌倉の裏山には、手軽に走りに行けるトレイルが豊富に存在している。ハイカー以外にも地元住民や観光客なども多数利用するので、マナーやモラルを守りながら遊んで欲しい
走るためだけでなく、下山後に街歩きも楽しめるような装いもならではのこだわり
トレランを通して世界の広さを知る

26歳になった年に、目標としていたアドベンチャーレースの世界大会に出場する夢は叶った。一方で、競技を続けるための環境は決して恵まれていたとは言えず、生活は苦しかった。

そんなおり、個人としてのサポートに手を上げてくれる企業が現れる。
「自分の中で一番好きだった山で走ることを極めてみたい。世界でどれだけ戦えるか試してみたくて、プロになったんです」

アスリートとして強くなるのはもちろんのこと、競技としてだけでなく、山を走る「トレイルランニング」というもの自体を極めたかった。そのためには、世界では大会がどのように行われているのか、どんな人たちがどんな場所でどんな風にトレイルランニングを楽しんでいるのかを知る必要があった。そして、トレイルランニングを日本国内でも広く普及させ、ストイックな競技者だけではなく、もっと楽しみながら山を走れる環境を作ることが重要だと感じるようになっていった。

世界中の主要レースを転戦する中で感じたのは、山を走る人々は世界各国にたくさんいて、国や場所によって環境も異なり、走り方も異なるのではないかという疑問だった。
「『え、こんなところでも走ってるの?』という僻地のレースにまで足を延ばしました。情報源は海外レースに参戦した時に顔を合わせる海外ランナーでしたね。『変わったレースがあるぞ』と聞けば、情報がほとんどないところでも飛んで行く。例えば、『走る民族』として知られるララムリ(タラフマラ族)が参戦するメキシコのレースなんて、すごく印象的でした」

ララムリとは、水を汲むにも片道数kmの山道を往復しなければならないような、標高2,000mを越える土地で生活する山岳民族。普段から、仲間と交互に球を蹴って遊びならが50km近くも山中を走ってしまうという、驚異的な日常生活を送ることでも知られている。

「ララムリたちは、独特な民族衣装をまとい、足元は古タイヤを切って紐を付けただけの『ワラーチ』という鉛のような重さのサンダルを履いている。女性に至ってはこちらも民族衣装のワンピースで走ってるのに、すごく速い。対する僕は、最新の快適なウエアを着て、ハイテクなランニングシューズを履いていたのに、なかなか追いつけないくらいでした」

ネパールでは、標高5,300mにあるヒマラヤのベースキャンプからシェルパたちと共に一気に駆け下りるレースにも参加した。酸素が薄いため、スタート前の高度順応に10日間もかけたにも関わらず、ちょっと走るだけで強烈な頭痛がするようなハードなレースだった。アフリカでは、コース上にシマウマやダチョウが現れ、森にはゾウの鳴き声が響く、まるで動物園の檻の中を走っているようなレースにも出た。

「世界中それぞれの国や地域に、個性的なレースがある。スタートラインに立てた時点でホッとするくらい未知で困難なものが、僕は好きなんです。リサーチをしている時間や旅の行程、そこで出会う人々と一緒に過ごす時間も面白い。走りに行くたびに、こんな世界もあったのかといつも驚かされます」↙︎
民族衣装にサンダル履きのララムリと競り合う。ウエアの色は偶然にもそっくりだが機能性は雲泥の差
(上)足元にご注目。古タイヤを切り出して作ったワラーチが、ララムリたちのランニングシューズである(下)ヒマラヤで行われる大会では、高度順応が必要不可欠。出走前の10日間ほど、レースではライバルとなるシェルパたちと共同生活を送った
自分にしかできない広め方をしたい

「山道を走ると木の根や、石ころが現れたり、斜面がどんどん変化したり。一種の障害物競走のような楽しみがあります。一晩越えて走るようなレースでは、朝の日の出と共に花の蕾が一斉に開くような美しい景色を目にできることもある。山の大自然の中を走ることは、トレイルランニングの魅力のひとつです」

もちろん、大自然の中を走る面白さと長い距離を走り切った時の達成感は、近年トレイルランナーが急増している大きな理由だろう。しかし、レースでは時にフルマラソンの4倍近い100マイル(160km)もの距離、しかも起伏のあるきつい山道を走るのだ。160kmというと、鎌倉から群馬県の高崎市まで行けてしまうほどの距離である。面白さと達成感だけで走り切れるはずがない。

「僕の場合は、レースを“自分の足で歩く旅をしている”とも考えながら走っています。自分の足で160kmを歩くって、すごい旅じゃないですか。特にヨーロッパなんて、ひと山越えるたびに民族が変わって、街の景色や地域性もどんどん変化していくのを体感できる。エイドステーション(補給場)では、地元の名産を振る舞ってもらえることもあります。“走ることだけにこだわらないこと”も、きついレースを最大限に楽しむ方法のひとつなんです」

近年は、プレイヤーとしてのみならず、自身の経験を生かしてレースのプロデュースなど運営面での活動やトレイルランニングの普及活動にも力を入れている石川さん。一昨年設立された日本トレイルランナーズ協会では、副会長も務めている。日本におけるトレイルランニングとはこういうものだという指針作り、競技人口が増えても安全に楽しむためのルールとフィールドの整備、世界大会に選手が出場する際に国からサポートを受けるための基盤作り、ガイド資格検定を設立するための準備…。やらねばならないことは山積みだ。

「注目度の高いレースでリザルトを残すことも、競技を広める方法のひとつでしょう。でも、そこはもう僕じゃない選手でもできること。その方法での僕の役割は終えた。僕は競技だけじゃない、速さだけじゃないトレイルランニングの楽しみ方を伝えていきたい。本来の一番面白い部分である純粋に山を走る魅力を伝えることで、トレイルランニングをカルチャーとして広く一般に受け入れてもらう。これは、今は自分にしかできない役割だと思っています」

また、これは一筋縄じゃいかない道を選んだものだ。しかし、彼にとって困難こそが大きな山を越えて走り続ける活力になる。スタートラインに立った石川さんは、待ち受ける長い道のりを前にしてどこか楽しげだ。
(上)各地でトレイルの整備も行う。環境が整い、ランナーは増えた。だからこそ、ルールとマナーを守って楽しんでほしい(下)主催するレースには多くの参加者が集まる。20年前には想像もできなかった光景だ
ひと目でわかる力強くしなやかな筋肉は、日々のトレーニングの賜物だ

PROFILE

石川 弘樹

プロトレイルランナー。一部の人々のみで競われていた日本の山岳レースシーンに、欧米のスタイルを取り入れたアウトドアスポーツとしての「トレイルランニング」を広めた第一人者。現在は、ランナーとしての活動はもちろんのこと、日本トレイルランナーズ協会の副会長をはじめ、さまざまな形でトレイルランニングのさらなる普及活動に取り組んでいる。ちなみに、レース期間外にはサーフィンも嗜む。ホームポイントは大磯。著書に「トレイルランニングを楽しむ」(地球丸)、「トレイル トリップ」(講談社)、DVDに「From The Trails」(WOOD HOUSE studio)がある。

主なスポンサーは、patagonia、montrail、MAGMA、GREGORY、NISSAN X-TRAIL、PowerBar、SUPERfeet、New-HALE / PRO-TEC、BEACH 葉山、MUSASHI