一杯のグラスに気持ちを込めて

この世の中で人生を豊かにするものが三つある。よき友、よき伴侶、そして、よきバーテンダーだ。確かどこかの小説家の言葉だったと思うが、愛酒家にとってはまさに言い得て妙だろう。おいしい酒を供し、客の話に耳を傾け、カウンターの隅々に目を配らせる。客は日常から離れ、バーに流れる心地よい宵いの時間に身を浸す。茅ヶ崎にあるカヴァの小川良さんは、まさにそんなバーテンダーのひとりだ。

カウンターに、琥珀色に満たされたバカラのロックグラスがサーブされる。アメリカン・ウイスキーをベースにしたクラシックなロングカクテル、オールド・ファッションドだ。グラスの縁を口に近づけ、ひと口すする。

「うむ」

思わず驚きの声が漏れる。チェリーとオレンジのほのかな甘い香りが、バーボンの深みを引き立てる。定石の角砂糖を、カソナードで焦がしたオレンジにアレンジ。チェリーはシロップ漬けではなくシェリー漬けに。隠し味のビターは、チョコレートとシナモンだろうか。細部にこだわった丁寧な味に笑みが浮かぶ。

「恥ずかしいものを出したくないので、一杯に対する気持ちはすごく大事にしていますね」

バーテンダーの道を歩んで22年になる小川さん。元々は都内の一流ホテルのバーテンダーを務めていた。国内の政財界や著名人、海外のセレブらがひいきにする、誰もが知る老舗だ。当時は、バーが二つ、ラウンジが一つ、バーテンダーの数は総勢30人という大所帯。花形のバーテンダーになるまでには、バーウエイター、アシスタントバーテンダーという下積みに厳しい昇格試験と、６年間の時間を要したと言う。それだけに小川さんの腕は確かだ。

カクテルは基本的には材料やレシピは同一だ。だが、バーテンダーによって、その味は異なる。

「シェイクやステアの仕方で変わります。基本的には『どこで止めるか』なんですよ。僕は若干、お酒に氷が交わるぐらいが好きなんです。水割りでも、最初に氷と1回合わせて馴染ませてから、水を入れてもう1回混ぜる。そうすると口当たりがよくなるんです。氷を練り込んでから作る水割りが、自分は好きなので、そういうスタイルで作ります」↙︎

一流の味をくつろいで楽しむ

11年目に独立して、横浜・関内で自らの店を持った小川さん。複数の店のオーナーになり、若くして横浜のバーテンダー協会の支部長を務めるまでになったが、一つの夢があった。生まれ育った茅ヶ崎で、バーを開くことだった。

２年前に転機が訪れた。地元で足しげく通っていた老舗のバーが閉店することになったのだ。

「茅ヶ崎では珍しくシングルモルトが充実している店でよく通っていました。マスターとよくウイスキー話で盛り上がっていました。『引退する時は、引き継いでくれ』と言われていたんです」

「カヴァ」という名前を引き継ぎ、リニューアルオープン。「地元に戻るのはちょっと早いかな」と思いつつも、念願の夢を叶えることができた。大好きなサザンオールスターズの曲をかけながら、馴染みの客に酒を供し、会話を楽しむ。東京のホテルとも横浜とも異なる、リラックスした雰囲気が店には流れる。

「地域に愛される店ではないですが、地元のお客さんが楽しんで飲めるところというのは残してはいきたい」

くつろいだ雰囲気で、肩肘張らずに絶品のカクテルを楽しむことができる。茅ヶ崎の左党はなんとも幸せだ。

「僕はやっぱり、『生涯現役』にこだわりたいですね。『経営者』と言われるのは嫌。ずっとバーテンダーとしていたいですね」