THE PADDLER 湘南で自分らしく人生を切り拓いてゆく男たちを紹介

THE PADDLER | 038 Mr. Yoshihiro Awazu 海の家「HAPPY GO LUCKY」代表・「MICROWAVE SOUNDSYSTEM」主宰
粟津義博さん | 逗子

湘南には、自分らしく人生を切り拓くために漕ぎ出す男たち=THE PADDLERがいる。
彼らを突き動かすもの、そして、視線の先にあるものは?
INPUTとOUTPUTという二つのワードから、その行動を探る。

Photo: Yumi Saito  Text: Paddler

INPUT
「そこでは、国籍や性別の関係もなく、誰もがフラットに話をして、 旅人同士が仲良くなっていく。そんな感覚を日本では味わったことがなかったので、 自分でそういう空間をつくってみたいと思ったんです」

“湘南のビーチ”と一口に言っても、それぞれのビーチで個性が異なる。もしかすると、この地域に暮らす人以外にはあまり見えてこないものなのかもしれないが、それは、確かにある。ビーチに漂う空気感、温度感、カルチャーが違ってくるのだ。

ビーチの数だけある個性、それは海の家にも現れる。そんな海の家に、人は何を求めるだろうか。ロケーション、懐かしい感覚、食事や飲み物……。細かく分ければそんなことがあがるのだろうが、何より大切なのは、海辺での夏のひと時を楽しむことができるか、ということだろう。逗子海岸にも、心地よい空間に人が集まってくる海の家がある。

「10代後半の頃から頻繁に海外を旅していたんです。アジアの国々のゲストハウスに宿泊することが多かったのですが、宿泊者が集まれるスペースがあったりして、そこでは、国籍や性別の関係もなく、誰もがフラットに話をして、旅人同士が仲良くなっていくんです。そんな感覚を日本では味わったことがなかったので、自分でそういう空間をつくってみたいと思ったんです」

今年2019年で13年目を迎える海の家「HAPPY GO LUCKY」のオーナー・粟津義博さんが店をスタートさせたのは24歳の時。当時、友人たちとサウンドシステムを持ち、
ダンス・ミュージックのイベントを企画運営していた粟津さん。東京を中心に活動していたが、地元である逗子海岸でイギリス人が1年だけ運営していた「ジェリー・フィッシュ」という海の家でDJをしていたことで、海の家に興味を持つようになったそうだ。

「いいお店だったんですよ。その頃はまだ24時間営業でしたね。そこで過ごした時間が心地よくて、海の家をやってみたいと考えていた時に、知人の紹介で海の家の権利を譲ってくれる方に会うことができたんです。その後、紆余曲折はありましたけど、様々な縁のおかげで始められることになりました」

とはいえ、その時の粟津さんには海の家を建てる大工知識もなければ、飲食店の経験もなかったという。のちに結婚することになる比奈子さんにサウンド・システムの仲間を加えた創業メンバーで、文字通り、見よう見真似でスタートさせたのだ。

「今の半分ぐらいの広さでしたね。権利を譲ってくれた方がやっていた昔ながらの海の家の建材があったので、それを使って別のデザインにして、とにかく建ててみようと。海の家を手がけている職人さんなどにいろいろ教えてもらいました」

「HAPPY GO LUCKY」といえば、スタート当初からヤシの葉葺きの三角屋根が目印だ。そのヤシの葉は、逗子マリーナの街路樹であるヤシの木の剪定葉をもらえることになるなど、地元の多くの助けがあって完成。ここから13年続く「HAPPY GO LUCKY」の歴史が始まった。↙︎

OUTPUT
「土地に暮らすおもしろい人に出会うと、その土地が魅力的に感じるんですよね」

「海の家はやっていましたが、ずっと逗子に暮らしていたわけではないんです。4年ぐらい横浜に住んでいたこともあって、最後の半年ぐらい奥さんと一緒に世界中を旅したんです。その時に、帰国したら次に住むのは横浜じゃないかもねと話していたところ、逗子で家をシェアする話があって、それで地元に帰ってきたんです。若い時は “田舎だな”、“何もないな” って思っていたんですけど、この町に戻ってきた時に、『ヨロッコビール』を始めたばかりの吉瀬明生くんに再会したり、『逗子海岸映画祭』を運営するのみんなと出会ったりしたんです。土地に暮らすおもしろい人に出会うと、その土地が魅力的に感じるんですよね。それからは様々な人に積極的に会うようになり、やがて新しい目線で土地の魅力が見えてくるようになりました」

少しずつ、地元への意識が変わるきっかけがあった。それがそんな逗子をベースに活動する同世代の活躍からの刺激。そして、こんなこともあった。

かねてから準備していた長野・野沢温泉でのプロジェクトが本格的に動く段階になった際、それまで逗子ー野沢温泉間をトラックで通いすぎたせいで、椎間板ヘルニアを患ってしまったのだ。このプロジェクトは一旦中断。自分は遠方への通いで何かするには体が向いていないのかもしれない、そう感じていた時に、旅先で出会ったある言葉を思い出した。

「モロッコのシャウエンという町を旅していた時に、日本のモロッコ大使館でドライバーをしていたこともあるポップコーン屋の主人と仲良くなったんです。その人と仕事のことを話していたら、僕の話を聞いた彼に『もっと自分の家の近くでやれることがいっぱいあるはずだから、考えてみたらどう?』と言われたんです。それがものすごく心に響いていて、その言葉を思い出したんです。それで、まずは逗子の街をくまなく歩いてみようと思いました。そうしたら、一軒の古いビルに空き物件を見つけて、半年間クラフトビールの店をやることにしたんです。夏限定の海の家とも違うので、もっと地域の人との交流が生まれました。野沢温泉の一件で身体を壊すまでは、常にどこか遠くで何かしたいという意識でした。でも、その件以来、仕事はなるべく家から近いところで、という意識にシフトしましたね」↙︎
粟津さんは、逗子での活動に力を注ぎ始めた。「逗子海岸映画祭」への参加、「池子の森の音楽祭」の主宰など、この数年は年間を通して逗子でのプロジェクトに携わっている。

現在は逗子海岸営業共同組合の理事として、逗子海岸全体のことを考え活動をしているのだが、それは2012年の殺人事件がきっかけとなった、海岸での「音楽禁止」、「飲酒禁止」などが盛り込まれた条例が施工された際にも大きな変化を及ぼしている。

「あの時に考え方が変わりましたね。それまでは自分たちの店にしか目がいっていなかったんです。でも、全体を守らないと、自分たちの場所も守ることができないとわかりました。それまでは、同じような価値観の人としかコミュニケーションしてなかったのですが、地域の人や行政の人たちとも、それまで以上に真剣に関わるようになりました。
あの事件があって、行動したことで、周囲が信用してくれるようになったと思います。それ以来、様々なことをお願いされるようになったんです」

粟津さんの元には、行政、民間を問わず、各方面から知恵を求めて人がやってくるという。

「正直に言うと、今はちょっとキャパを超えつつあります。だから、人が集まるところに行くのを控えようかと(笑)」

13年の間に、逗子海岸にも大きな変化があった。それを乗り越えて、良い方向に舵取りをしていったのだ。地元と繋がり、長い旅と思考の変化を経て、今、自身と家族が望む形で粟津さんの動きができてきている。そんな粟津さんの人生で大切なものに、2人の子どもの存在がある。

「子どもができたのはとても大きなことでした。自分の行動の原動力です。あの事件と条例の時、子どもたちにとって、逗子海岸が思い出の場所にならないといけないと思いましたね。海水浴場や海の家ってそういうところであるべきなんです。この場所を、自分の子どもたちを遊ばせたくないと感じるような場所には絶対にさせないと思いました。これから先、逗子海岸をもっといい海水浴場にしたいですね」

「絶対に」。この言葉がとても印象的だった。強い信念と覚悟、それがないと出てこない言葉。そんな粟津さんのつくる「HAPPY GO LUCKY」という空間には、守られているような、心地よい空気が流れている。

THE PADDLER PROFILE

粟津義博

1981年生まれ。逗子海岸で13年続く海の家「HAPPY GO LUCKY」代表であり、サウンド・システム「MICROWAVE SOUNDSYSTEM」を主宰。
毎年秋に開催される「池子の森音楽祭」の主催もするなど、逗子を魅力的な土地にしているひとり。