THE PADDLER 湘南で自分らしく人生を切り拓いてゆく男たちを紹介

THE PADDLER | 022 Mr.Hiroshi Suganuma 写真家|逗子

湘南には、自分らしく人生を切り拓くために漕ぎ出す男たち=THE PADDLERがいる。
彼らを突き動かすもの、そして、視線の先にあるものは?
INPUTとOUTPUTという二つのワードから、その行動を探る。

Photo: Yumi Saito  Text: Paddler

INPUT
「もっとスキーヤーを撮りたい、スキーの撮影を極めたいと思うようになったんです」

湘南は海のイメージを持たれるし、実際、海があってこその湘南ではあるのだが、山を活躍の場とするアスリートや、山を表現の場にするクラフトマンなど、湘南に暮らす “山の人” は多い。

逗子に暮らす写真家の菅沼浩さんもそのひとり。ずっと海から山に通う生活をしている。彼のフィールドは、山は山でも雪山だ。スキー写真の専門家として長くスキーシーンを見つめ、時代をつくってきた。

「カメラを持って40年くらいになりますね。写真好きの父親が持っていた二眼レフカメラで撮ったのが始まりです。父親の勧めで東京写真大学短期大学部写真学科に進学して、写真の世界に入りました」

スキーとの出会いも写真を学んでいた大学生の時に訪れる。1年生の時に蔵王で初めて体験したスキーに興味を持ち、2年生の冬を控えたある日、スキー場でスキースクールの記録写真を撮るアルバイトがあると聞いて即決。ひと冬を志賀高原で過ごし、撮影の合間に滑りこんでスキーを会得したそうだ。大学卒業後、撮影スタジオでアシスタントとして働き始め、撮影の基礎を学んだ後に、26歳でフリーとなった。

「アシスタント時代を経てさあフリーランスだ! となるわけですが、正直言うと仕事は少なくて、時間ができたもんだからサーフィンばかりしていましたね(笑)。でも、そんな時にゲレンデにモデルさんを連れて行って撮影をする仕事が入り始めたんです。ゲレンデに通ううちにスキーがおもしろくなってきて、滑りの写真も少しずつ撮らせてもらえるようになり、次第にスキーの世界にはまっていきました」

スキー写真界の若手としてキャリアを積み重ねだした頃、菅沼さんの写真家人生において決定的な出会いが訪れる。

「スキーの神様と言われていたインゲマル・ステンマルクが引退した年から7年間、毎シーズン10日間くらいヨーロッパで彼の撮影をすることになったんです。その時に触れた、彼のスキーに対する考え方や姿勢にものすごい感銘を受けました」

インゲマル・ステンマルクは1970~80年代に活躍したスウェーデンのアルペンスキーヤー。現役時代に圧倒的な強さを誇ったことから、当時は彼以下の2位になった選手が褒め称えられるほどだったという。

「ステンマルクの滑りを撮った時は鳥肌が立ちましたよ。ヨーロッパの山ってアイスバーン状態なんですけど、彼が滑ると美しいエッジの跡がつくんです。今だったらカービングスキーがあるけれど、当時のスキー板であんなことができるっていうのは信じられない。次元が違いましたね。そして、何より人としてすばらしかったんです。山の上で撮影終了となってから、機材を担いで山を降りる僕らを、彼はいつも所々で止まって待ってくれるんですよ。『なんでいつも待っていてくれるんですか?』と聞くと、『一緒に山にあがった仲間だから、帰るときも一緒に帰ったほうがハッピーじゃない?』と答えるんですよ。その一言が胸に刺さりましたね。その出会いがあって、自分も彼のような人間になりたい、もっとスキーヤーを撮りたい、スキーの撮影を極めたいと思うようになったんです」

ステンマルクと一緒に過ごした7年間が、菅沼さんをスキー写真の世界に深く入り込ませていく。だが、当時の日本はスキーブームの後期。広告やイベントなど、とにかくスキーがお金になる時代だった。一部の人間とはいえ「1本滑ったらいくらになる?」という姿勢でいるスキーヤーも少なくなく、スキー界を取り巻くそんな空気に抵抗感を持っていたそうだ。

「ステンマルクのスキーに対する姿勢に触れてたことで、“もっと純粋にスキーをしたい”という気持ちが強くなっていたのですが、当時の日本のスキー業界には首を傾げたくなることが多かったんです」↙︎

OUTPUT
「海から山に向かう時のオフからオンに気持ちが切り替わる感覚が好きですね」

そんな時に新たな出会いがあった。

今度はスキーの神様とはまた別の世界で生きる、日本の若いフリースキーヤーとの出会い。夏の間に働いたお金で、冬は1日でも長く雪山にいられように切り詰めた暮らしをして雪山を転々とする、スキーバムの若者たちだった。

「今では日本を代表するスキーヤーですが、まだ無名だった頃の佐々木大輔や児玉 毅たちと一緒に過ごすのがとても楽しかったんです。その頃は、彼らを撮影してもお金になるわけではなかったんですけど、山を登って滑ることや、それまでの僕の常識では考えられなかった悪天候下でのスキーの楽しみ方とか、多くのことを教えてもらったんです。何より彼らは純粋で美しかった」

2018年の今ではバックカントリースキーがブームになり、ゲレンデ以外で滑ることやパウダースノーの中を滑る楽しさも多くの人に知られてきている。だが、90年代後半当時の日本においては、その理解は少なかった。

「1997年に彼らをパウダーで撮った写真がスキー雑誌の表紙になったんですけど、その時に日本の著名なスキーヤーたちから批判の声がいっぱい出たんです。北海道の旭岳で撮った、ものすごいスプレーが舞っている写真で、光が美しい1枚でした。でも、それを見たあるスキーヤーが、『こんな写真は表紙にするべきじゃない』って編集部に電話をかけてきたそうなんです。その頃のスキー雑誌の表紙といえば、正面からスキーヤーに寄った写真っていうのが普通だったんでね」

それでも、菅沼さんはパウダーを生き生きと滑る若い世代のスキーヤーの写真を次々に発表していった。自分よりふた回り近く下の年代のスキーヤーたちと一緒に、自由なスキーの世界を伝え続けた。

「スキーはもっと自由で楽しいはずなんです」

そう話してくれる菅沼さんはとても楽しそうだ。彼は下の世代のフリースキーヤーたちのことを「純粋だ」と表現するが、菅沼さんのスキーに対する姿勢こそが純粋なのだろう。今年で61歳となる彼だが、雪の上に立っている時間は今が一番長いと言う。

「山にいること自体が楽しいし、ハッピーです。登るのも滑るのもハッピー。さらに、いい写真が撮れたら最高にハッピーです」

「数年前の北海道・余市岳の撮影の際ですが、撮影に選んだ日程の天気がずっと悪かったんです。でも、ほんの少しだけ雲の切れ間があったんで、皆に相談して晴れ間を待つことにしました。極寒の中でおよそ5時間。その日は撮影隊が僕らのほかに3組いたんですけど、皆諦めて山を下りたんです。でも、僕らは待っていた。すると、ほんの30分ほどですが、雲の切れ間から太陽の光が射して撮影できたんです。簡易テントでバカ話をしながら待つんですよ。寒くて辛いですけど、楽しいですよ。そういう状況を共有できる仲間たちと作品をつくれていることはハッピーですよね」

冬が始まると、そんな瞬間を求めて雪山へと向かう菅沼さん。北海道、青森、長野……。雪山から雪山へ。そんな動きを何十年もしてきたわけだが、この数年で変化があったという。

「冬は本当に出っぱなしで家に帰らなかったんですけど、家族ができてからは山から山へそのまま向かわず、一度逗子に帰るようになりましたね」

お子さんは5歳と1歳の男の子。長男とは休日に材木座海岸でサーフィンをしたり、磯遊びをすることが多いという。夏の間はとにかくリラックスして逗子で家族と一緒に過ごすのだそうだ。

「昔から海が好きだから、いつも海を見ながら過ごしたいんです。海から山に向かう時のオフからオンに気持ちが切り替わる感覚が好きですね。山に住まないんですか? とはよく聞かれますけど、僕にとっては海辺で過ごすオフの時間がとても大切なんです。夏が終わり、11月になった頃に気持ちがオンに切り替わります。山の降雪情報を聞くたび、徐々に緊張感が高まっていくんです。毎年11月の後半は富山の立山に登るのですが、それが僕のシーズンの始まりですね」

冬の始まりの立山、その美しさは格別なのだそうだ。本格的な冬に閉ざされる前の晴天がもたらす光が、すり鉢状の地形の山を照らし、その斜面に降り積もったパウダースノーを滑るスキーヤーを写真に収めるのだと、うれしそうに教えてくれた。

今年はいったいどんな雪が降るのだろうか? 雪のニュースが届いた頃には、菅沼さんはどこかの山へと笑顔で向かっていることだろう。

ESSENCE FOR HIS LIFE

THE PADDLER PROFILE

菅沼 浩

写真家。
1957年東京生まれ。逗子在住。
写真好きの父の影響により写真の道を志す。数々のトップ・スキーヤー、スノーボーダーから信頼され、長年にわたって彼らとともに撮影を重ねる。キャリア初の写真集となる『SHAPE OF SNOW』が10月に発売されたばかり。

写真集『SHAPE OF SNOW』は、What’s UPでご紹介中 >> 記事を読む