THE PADDLER 湘南で自分らしく人生を切り拓いてゆく男たちを紹介

THE PADDLER | 041 Mr. Akihiko Tobinai YAMAHA Sailing Team 'Revs' ゼネラルマネージャー兼監督
飛内秋彦さん|葉山

湘南には、自分らしく人生を切り拓くために漕ぎ出す男たち=THE PADDLERがいる。
彼らを突き動かすもの、そして、視線の先にあるものは?
INPUTとOUTPUTという二つのワードから、その行動を探る。

Photo: Pero  Text: Paddler Edit: Yu Tokunaga

INPUT
「高校時代の挫折。目前で逃した2度のオリンピック。だから学べた」

2020年、オリンピックのセーリング競技の舞台となる湘南。既に海の中では、国内はもとより海外から屈指のチームが集結して、世界の頂きを目指してトレーニングを積んでいる。葉山マリーナに本拠地を構える「YAMAHA Sailing Team 'Revs'(ヤマハセーリングチーム 'レヴズ')」もその一つ。オーストラリアの金メダリストを契約選手として抱え、来夏の活躍に期待がかかる強豪チームだ。

4年前の創部以来、チームを束ねているのが、ゼネラルマネージャー兼監督の飛内秋彦さんだ。ヤマハといえばグローバル・ナンバーワン・ブランドを目指す大企業。そのマリン事業部の看板ともいえるチームを一任されるのだから、飛内さんのセーラーとしての実力は察せられる。だが、選手時代は決して順風満帆とは言えなかった。

飛内さんが、ヨットを始めたのは高校生の時。インターハイ優勝を目指していたが、不本意な成績で3年間を終えてしまった。大学でもヨット部に入部したが、周りはセレクション(推薦)で集められたエリートばかり。

「高校時代は挫折だらけでしたから、『負けたくない』の一心でしたね。コンプレックスがあるので、もうやるしかない」

根っからの負けず嫌いの性格に火がついて、メキメキ頭角を表した。4年後にはキャプテンに就任して、創部初となる全国制覇を果たした。

高校時代に教えを受けた恩師に憧れて、将来は教員となってヨットの指導者を歩もうと考えていた飛内さんだったが転機が訪れる。「ぜひ、うちでやらないか」と、ヤマハから声がかかったのだ。目標は、1984年のロサンゼルスオリンピック出場。既に教員採用試験にも受かっていた飛内さんは、迷いに迷った。だが、相談をしたヨット界のレジェンドともいえる先輩の声が背中を押した。

「オリンピックは今しか狙えないぞ」↙︎
オリンピックの代表選考レースは3回開催される。2回までトップだったが、最後の最後に僅差で逆転負けを喫してしまった。

「やるだけやった。『よし、教員になろう』と、スカウトした上司に辞表を出そうとした。そしたら、『飛内君はヨットしかやっていない。世間を知らないと、まともな先生にはなれない。営業をして社会経験を積みなさい。3年やって、それから好きな人生を歩みなさい』と。営業なんてしたことはありませんでしたが、フツフツとチャレンジ精神が出てきました」

ここでも負けず嫌いの性格を発揮して、なんと3年後にはトップセールスマンに。だが、「よし、これからもっとがんばろう」という矢先に、辞令がくる。「セーリングチームに戻れ」。セーリングは2名1組で行うが、その1名が急きょ辞めてしまい、飛内さんに白羽の矢が立ったのだ。海には通い続けていたが、得意先との接待で飲み歩くことも多く、不摂生が続いていた。まずは体をつくり直すことからスタートした。ゴールは目前に迫った1988年のソウルオリンピック出場だった。

結果、最終予選に進出。2回までトップを走り、「今回はいけるぞ!」という思いが心をよぎったが、前回と同じく最終戦で敗退してしまった。

「やはり、復帰して半年でオリンピックに出るのは甘いんですよ」

飛内さんの現役生活はここで終わったが、営業マンとして活躍していたマネジメント能力が評価されて、オリンピックチームのコーチを拝命。ソウルではセーラーたちを陰で支えた。

昨年2019年、還暦を超えた飛内さん。その人生の3分の2以上を海に費やしてきた。そこまでひとりの男を惹きつけるセーリングの魅力とは?

「自然が相手ですから、毎日違うじゃないですか。風、波、天気……。その中で自分が上手くいった時をどう再現するか。いろんな要素がある。道具をちゃんとしなければいけない。体を鍛えなければない。気象条件に合わせる。日々違うわけです。ですから、なかなか上手くいかない。ですが、上手くいった時のおもしろさはたまらない」↙︎

OUTPUT
「葉山の海からオリンピック選手、そしてメダルを」

飛内さんへの取材を行う数日前、セーリングワールドカップが江の島で開催された。オリンピックの前哨戦として代表選出が決まる重要な大会だったが、「YAMAHA Sailing Team 'Revs'」に所属する日本人選手は遷に漏れてしまった。さぞ飛内さんも落胆していると思いきや、その顔は意外にも晴れやかだった。

飛内さんへ監督就任の内命があったのは今から4年前。既にヤマハのセーリングチームが廃部になって20年経っていた。新たにチームをつくり、マネジメントから監督まですべてを飛内さんに託したい。そのミッションは「東京オリンピックに出場して金メダルを獲る」ことだった。

「『とても4年では無理ですから』と断ったんですよ。例えば、日本のトップセーラー、今度代表になった選手を引き抜けば、いけたわけですよ。でも、それはヤマハとしてはおもしろくない。選手の育成とともにヨットの開発もしたい、と言われました」。

またもや会社からの辞令。飛内さんは「最後の奉公」と決心した。

ゼロからの立ち上げ。ベースとなる事務所の施工、ヨットの艇庫や練習場所、予算の確保さらには備品すべて自分で買いに行った。そして主役となる選手。育成することを目的に、高校生の有望なセーラーに目をつけた。学校に自宅に足を運んで口説き落とした。当時、世界最年少のプロセーラーが誕生した。

飛内さんの頭の中には、確固たる戦略があった。

「過去のパターンだったら、1回目のチャレンジはオリンピックに出られるか間近に経験する。そして2回目で出場。3回目でメダルを獲得。それを2回でやろうという計画なんです。『何だお前、東京オリンピックには出られないから8年後って言ってるんだろ』みたいに言われたくないので、『ゼロリセットでまたやります』ですが」 ↙︎
飛内さんが自宅のある葉山で過ごすことができるのは、年の半分ほど。若い選手とともに海外を飛び回る日々を過ごしている。

「高校からスカウトしてきて、その子たちの成績がなかなか出るわけないんですけど、やっぱり少しずつ上手くなる。これはね、やはりおもしろいですね。企業でも一番大事なのは人材育成なんですよ。チーム全員に言っているのが、『君たちの目標はオリンピック代表だけど、一番大事なのは幸せな人生を歩むこと。選手を終えてからまともな人生を送るためにも、今からいろんな勉強をしなさい』ということです」

紆余曲折の選手生活を経験した飛内さんだからの言葉だ。青年のころに夢みた「指導者」の道を、今歩んでいる。

インタビュー後、撮影のためにボートで葉山沖に出た。裕次郎灯台、森戸神社の鳥居をぐるりと回る。江の島や稲村ガ崎の緑、一色海岸の白砂が目に映える。

「こんな自然が豊かな海は世界でも珍しいですよ。海岸線が開発されていないから、人工物が少ない。海のうねりが砂浜に吸収されて返ってこないから、とても穏やか。大きな港がないので、タンカーなどの大型船も通りません」

43年間も過ごしてきた自慢の海だ。飛内さんにとっては自宅の庭のような存在なのだろう。

「今人生の最後の方に、こんなにおもしろい仕事をやらせていただいている。このチームをずっと、ここで続けていただきたい。葉山には、ヤマハのジュニア向けのスクールがあるんです。その子どもたちが、僕が育てた選手が獲ったメダルを見て喜んで、オリンピックを目指してチームに加入してヨットを続けてほしいですね」

飛内さんの眼差しは、既にパリオリンピックが開催されるフランスの海に向いている。

THE PADDLER PROFILE

飛内秋彦

1958年青森県生まれ。大湊高校から日本大学を経てヤマハ発動機に入社。学生時代からヨット部で活躍し、ヤマハ発動機入社後もソウル、バルセロナ五輪のコーチなどを務める。営業の第一線で働く傍ら、現役のレーサーとしても数多くの外洋レースで活躍する。2016年「YAMAHA Sailing Team 'Revs'」のGM兼監督に就任。大学の合宿所があった縁で、卒業以来、葉山に住まいを構える。