THE PADDLER 湘南で自分らしく人生を切り拓いてゆく男たちを紹介

THE PADDLER | 001 Mr.Mokichi Kumazawa 熊澤茂吉さん
熊澤酒造株式会社 代表取締役 | 茅ヶ崎

湘南には、自分らしく人生を切り拓いていくために漕ぎ出す人たち=THE PADDLERがいる。そんな男たちの物語。
第1話は、湘南に残る唯一の蔵元、熊澤酒造の熊澤茂吉さんによる「好きのアウトプット」について。

Photos : Taisuke Yokoyama  Text : Tomohiro Okusa

ミモザに覆われたアーチをくぐる。敷地内は緑にあふれ、ベンチもあり、まるでヨーロッパの公園のようだ。包容力に満ちながら、洗練感をも覚えるこの場所は、どこか形容しがたい“自由を謳歌している” 感じがある。 

ここは、明治5年創業の湘南で唯一の造り酒屋『熊澤酒造』。その6代目である茂吉さんは、かつて廃業の危機に陥った家業を、見事に再生させた手腕の持ち主だ。造り酒屋という範疇を超え、本業の傍で地ビールを醸造し、本社の敷地でビール酵母を利用するベーカリー、酒蔵を改築したり古民家を移築したレストランに加え、地元アーティストの作品を紹介するギャラリーの運営にも熱心に取り組んでいる。この場所を今のようなスタイルに進化させた張本人なのである。

そもそも蔵元が挑むには突飛なことであっただろうし、特に伝統的な業界において、ブレイクスルーしなくてはならない壁も多かったはずだ。それを見事に軌道に乗せ、地元にとどまらない多くを惹きつける独特の世界観を構築させた。その原点は、彼が学生の時に放浪したアメリカにある。

自らの好きセンサーにしたがって

「放浪というのは、期限がないんです。“いつ・どこに”という目的もない。その日、気になる場所に、なんとなく行くだけ。それを決めるのは、自分の“好き”という感性だけなのです。当然とそのセンサーは研ぎ澄まされていきました。この場所も、自分の“好き”を集めた世界なのです」

植栽や建築には強いこだわりを感じ、インテリアや什器も瀟洒だ。センスがいいといえば簡単だが、プロによる完成品とは違う、どこか現在進行形的な手作り感や、にじみ出る愛情のようなものが、ここにある刺激と心地よさの両者を生んでいる。
「旅の道中、いつも僕が惹かれていた場所には、共通点がありました。それは“オーナーが個人的な思いで好き勝手にやっている場所” 。セルフビルドで何十年もかけ、コツコツとつくり上げてきたカフェや骨董屋などだったのです。ここもプロに丸投げしてしまうのではなく、僕が自ら考え、その構想やイメージをパートナーに相談し、ともに時間をかけてつくり上げてきました。整ったいい子をつくるより、いつまでも個人的な想いを大事にしてゆきたいのです」
茂吉さんの世界観の良き理解者「けむりデザイン」(小田原)の和田夫婦とは、もう20年もの付き合いになるそうだ。
「この場所もそうですが、会社そのものが僕の作品であり、自己表現なのです」↙︎

“文化を築いてゆくということは、時間をかけて根を張ってゆくということ”

子どもの頃から新しいものより古いものが好きだったという熊澤さん。熊澤酒造の敷地内では、有名無名を問わず、マニアを唸らせる北欧やアメリカをはじめとする各国のヴィンテージ家具や照明、希少なアンティークキリムや道具などが日常使いされている。古民家の和の世界で繰り広げられる、多様な国籍と時代の組み合わせの妙といったら。しかも、そのさりげなさがかっこよく、新鮮なのだ。
「古いものの存在には意味があります。“選ばれた良いものが残っている”ということなのです。僕もそのようなモノを残していきたいと思っています。この場所もそのひとつなのです」

孫やひ孫の世代まで、
ゆっくりと醸成していく


戦国末期から茅ケ崎の北部という地に居を構えてきた熊澤家。13代目の茂吉さんも、ここで生まれ育った生粋のローカルだ。にもかかわらず、茅ヶ崎という地に特別なこだわりを持っていたわけでないという。ただし、熊澤酒造を受け継ぐ自分には、ここしかないと確信していたと。だからこそ、自分の“好き”を大切する感性を、この場所に最大限にアウトプットしようとしたのかもしれない。自分に心地よく、自分らしく満足して過ごせる場所づくり。

「今は、この場所を魅力的にしていくことが、結果的に地域貢献に繋がっていくと思っています」   
時間をかけて良いものをつくりあげてゆく。そうすることで、それに共感する人たちが自然と集まり、コミュニティがつくられてゆく。決して、焦らない。茂吉さんはそのリズムを大切にしていた。
「いつか、熊澤酒造があるから茅ヶ崎に移り住んできた、なんて言われるようになりたいですね。孫とかひ孫くらいの世代になったときに、熊澤酒造が地域に貢献したと言われるくらい、じっくりと醸成してゆくものだと思っています」

そんな茂吉さんがこれからを語ってくれた。近い将来のプロジェクトとして、裏山での「森の保育園」の実現を掲げた。それは、熊澤酒造で働くスタッフたちが、安心して子どもを預け、仕事に取り組める環境づくりを願ってのものだ。そして、いつかこの保育園で元気に育った子どもたちが、再びここに戻り熊澤酒造で働いてくれたら、と。

新しい文化を築いてゆく。それは、焦らずしっかりと根を張ってゆくことだと茂吉さんは語る。見つめているのは10年よりもさらにもっと先。自らが築いたものが、新たな世代に受け継がれて行く喜びを今に楽しみながら。

JEEP

アメリカをひとり旅していたときに乗っていた車。帰国後、同じ車種を購入し、22年間乗り続けている。「これに乗っている限りは、まだまだ旅の途中です」

熊澤酒造

24歳で受け継いだ家業。廃業の危機にあった状況から立て直しを図る。独自のブランドやり方に挑むことで、新しい造り酒屋のスタイルを築いた。

自宅

「『家』がその人をつくる」と信じている。9年前に入手したこの家は、尊敬する建築家、吉村順三の作品。築半世紀を経たこの家にふさわしい自分になりたいと思っている。

家族

「家族は自分自身の根っこ」と語る。妻・由布子さんとは結婚して18年。「いつも笑顔でいてくれる人。家に帰るとホッとできます」。一男一女に恵まれ家族4人暮らし。

PROFILE

熊澤 茂吉

茅ヶ崎生まれ。湘南に残る唯一の酒蔵、熊澤酒造株式会社の代表取締役社長。
大学卒業後、アメリカを放浪。24歳で帰国して熊澤酒造を継ぐ。当時の下請けとしての立場を脱するため、ビール製造やブランディングを確立。
誰もが訪れやすいオープンな熊澤酒造をつくりあげた。現在、自然教育を取り入れた「森の保育園」を構想中。

株式会社熊澤酒造
神奈川県茅ヶ崎市香川7-10-7
www.kumazawa.jp/mokichi/